昭和46年10月27日 朝の御理解
御理解第29節「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ」
おかげというのは、ここでは桜の花と。梅の花というのは、お徳と頂くべきでしょう。ですから、おかげを願う信心よりと。お徳を受ける信心をせよということになるのじゃないでしょうかね。
ね、いわゆる、おかげ信心より、お徳を頂く信心を。いわゆるおかげを頂く信心がいけないとは仰ってない。より、ね、「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ」。
おかげを頂くことによって、神様の働き、神様のおかげを知る事が出来るんですから、今日はそういう意味でここんところを頂いていきたいと思うですね。
だから、全然今まで違ってとらえた、この梅の花と桜の花の信心、それぞれ大変違うと思うんです(たんにお話をしての?)。
えー、その次の30節に、「神を信ずる者は多いが、神に信じられる者が少ない」と。これはいわゆる、神を信ずる者というのは、やはりおかげを受ける。ね、おかげを受けることによって、えー、神様が分かる。
又は、えー、教学的な面、いわゆる勉強家ね、教学的な、勉強からでも、ね、神の実在というものを認める事が出来る。いわゆる信ずる事が出来る。おかげを受けて信ずることも出来る。
けれども、神を信じたからというて、えー、理屈の、理論の上で神様を分かったからというて、それで分かっておるから、神様が信用なさるという事ではない。ね、桜の花のような、いわばおかげを受けて、ね、おかげを受けておるから、神様がおかげを受けた氏子を信じなさるという事ではない。
ただ、受けた方の側としては、神様のおかげといわなければおられないという事になったり、勉強すれば勉強するほど、神の実在を認めないわけにはいかないというように、信じてまいりましてもです、なら、神様から信じられるという事ではないという事。
私は昨日、まぁこれは、まぁこういう意味でなら何時ものことですけれども、んー、せんだってから、あのお供えを頂いておりました、この「あきがらす、あきがらすびん?」という方の、禅宗を、これはまぁ色々宗教(?)大変えー、まぁ何というですかね、まぁ詳しいお坊さん訪ねられ、お坊さんが書かれた、(?)大変(にゅうし?)困難の、当時ご本であったという事です。
だから、この禅宗を読めば、もうあらゆる宗教が分かるというわけのほどしのもの、ところが段々、金光様の御信心をさせてもらい、み教えを頂かせてもらいよったら、もうこの禅宗がいらない事になった。というので、この、おー、そのまま全巻をお供えしておられた。
私これを、時折、もう半年ぐらいなりましょうけれども、大変魅力を感じるんですこの本にはですね。ですから、本当、お道の本よりも素晴らしい魅力を感ずるんです。だからもう大変小さい字でこんなにいっぱい書いてあるんだけれども、3巻だけ読ませて頂いた。
まぁ二巻だけ忘れて、三巻目を昨日、10ページばっかり読ませて頂いて、まあ驚いた事でしたけれども。
昨日の朝、私が皆さんに聞いて頂いきました、非常にまぁ分かり、分かりにくいていうでしょうかね、ていうような話しをいたしました。それをそれがもうそのままの、私がいったような事が書いてある事に驚きました。
なるほど、この三巻、あのこの三巻目には、始めんところ、蓮如上人のことがちょっと書いてあります。蓮如上人というのは、あー、親鸞上人の、おー、信仰を段々受けられた、7代目かな、方です。
まぁ宗教の祖といわれるほどしに、もう信心、あの、親鸞上人に( ? )とでも申しましょうかね。しん、真宗の信心が、もうほとんど(ち?)に落ちるほどしに、あの、落ちるような、状態の時に、えー、又新たな勢いで、この宗教が起こったと。
いわゆる、あの(おぶん様?)なんかていうのは、れんし、蓮如上人様のお手紙を、あの、つづったものだそうですね。だから、親鸞上人から数えて7代目の方。
その方の、だから私それを読ませて頂きながらです、本当に金光様の御信心の素晴らしさをいよいよ分からせて頂いたんですけれどもね、もうこれは親鸞上人よりも、蓮如上人よりも、そしてここの、「あけがらす?」という方の、信仰よりも、こりゃ私の信心の方が上だと思うたんです。上となんと言うとおかしいですけどね。
いわゆる、それは、私の信心じゃなく、金光様のご信心が素晴らしいという事なんです。ね。
今日申します、「神を信ずるものは多いが、神に信じられるものが少ない」ね、例えば、昨日私そのことを、御事柄として、えー、その(けいり?)にいって、大変おかげを受けたという話しをいたしましたですね。
又他に色々な、例えて極端な事をいうと、おー、人道、人間の道。人倫。えー、道徳というのの道には外れておっても、それは決して神様がそれをとがめなさるようなことは絶対にないと。そのことによって自分の心を、に、いうならば、心の呵責というかね、良心の呵責というような事があろうはずはないです。
そこに、もう閻魔様は死んでしまいなさるんだというような事を申しましたですね。そのことが書いてあるんです。ね、親鸞上人もやっぱそういう方であった。ね、いわゆるそれはどういうことかというと、神をし、神を信ずる者はということは、ね、まぁ神じゃないけれどもね、上人様が言っておられることは、仏様ですけれども、同じこと、意味なんですけれど、神様は決して罰を当てなさるような神様じゃない、という事を、強調されたわけです。
ね、これは四神様も仰っておられますよね。お気付けを頂いたとか、罰かぶったとかいうけれど、ね、罰を与えるぐらいな暇はないと仰る。罰を与えるぐらいなら、おかげをやるばいと仰るようなの、だそうです。
それは例えばどういうような場合であっても、どのような罪業の深い、その人であっても、親鸞上人の教えを再び頂いたら、心が晴れやかになるというほどしのもの。ね、だから結局、確かに神様はそのくらいなていうか、そんなことで責めなさるような方じゃないと。又は、それを(とがめや?)するような神じゃないと信じたわけですね。親鸞も、又は蓮如上人も、いうならばこの「あけがらし?」「あけがらす?」というそのお坊さんもやっぱそうである。
そこに、親鸞上人の信心の素晴らしいということが(分かる?)。だから神様を信ずるですか。というところにおいては、昨日の私の話しも同じことと思う。けども少し違ってます。それから先が違ってましてですね。
それではしかし、おかげは受けられない、力は受けられないという事。そうでしょうが、だから、真宗の、例えばなるほど素晴らしい悟りというかもしれませんけれども、なら、真宗の信心によって、はぁめくらが目が開いたの、ちんばが立ったのちうような事ないでしょう。おかげというのはないんです。
ただ自分の心が救われる。どんなに、例えば人殺しをしたり、ね、(いった?)( ? )で言うたら、(りょうしとかかりんと?)とかという生き物を殺すような商売の者は、もう永劫救われないとばっかり思うておった。
それが、例えば南無阿弥陀仏だけで助かるんだと説いたのです。仏様や神はそういう事をしなさる事、方でないと、それをもう(いど?)整然と説いたわけです、教学的に、ね。ですから、もうそこそこで、助かったわけです。助かったからというて、ならそのいわゆる御利益とでも申しましょうかね、おかげには繋がらなかった。
その証拠には、この蓮如上人なんかは、もう晩年の頃まで貧乏しておられます。ね、世、世の中からは、例えばそういう素晴らしいことを、人に送った手紙を集めたら、もうそれは素晴らしい、そのご経文のような、素晴らしいことになったんだけれども、ご自身が、そして、昨日の御理解からね、思わせてもらうと。はーなるほど真宗は、開けた宗教だなぁという事が分かりますよね。何故かと蓮如上人もお手かけさんに出来られた子供さん。
6代目、6代ですかね、此の方7代ですから。6代の方の、お手かけさんに出来られておる。両親もなるほどそのために大変難儀をしておられますけれども、奥さんを五人変えておられる。84歳で亡くなる、えー、85歳で亡くなられて、84歳の年まで、お子さんが出来ております。奥さんが(次々?)若い。なんと27人出来とる、お子さんが。5人の奥さんにですね。
だから、そういう例えばてがけさんを持ったり、そのどうしたりといったような事が、仏様の罰、いわゆる神様がしめておら、おんなさらん事実がそこにあるでしょうが。まぁこれは普通の、真宗以外の仏教は、だから、その生苦さ坊主とこう言う訳です、だから、めいそうれつでん?)の中には、真宗のお坊さんは入ってないです。(妻帯肉食?)をするから。
ね、けれどもほんなら本人達は、それこそ救われきっておるという感じです、心は。ね、神をそれほどに信じる。仏様はそういう、例えばね、生草木を食べたから、生臭いことをしたから、罰が当たるといったような事じゃないという事を、だから、もう仏様のあらゆ、いわゆる偶像的な仏様は全部、この蓮如上人は焼いてしもうた。
というような事を、いわば平気でやっておられる。いうならば、いわゆるドライな信心とでも申しましょうか。(わいきって?)おられる。して、又事実そうなんだ。神様それを、責めなさるような事はないという事。
ね、けれどもね、昨日の、私もその話しを昨日は、30分間にわたってしましたが、後最後に申しましたように、しかしそれでは力が受けられない。今日の御理解で言うとです、それではね、神の信用を受けることは出来ない。
神様は信じても、神から信じられる氏子にはなることは出来ない。ね、ですからそういう信心というのは、丁度おしゃぶりをしゃぶるようなもので、ね、血にも肉にもなっていないと。という事が言える。
ね、赤ちゃんに、泣く時に、おしゃぶりを与えますと。そりゃ泣き止む。お乳吸うとるような気がするわけです。けれどもそれでは、血にも肉にもならない。だから、金光様、ご信心は例えてそこに、その、何事にも信心になれと仰る。そこんところの見極めをです、例えばばくちをうったり、女子をつくったり、男をつくったり。
ただ、そういう例えばいうなら、人道。人間の、から見てから、あぁいうことは平気でやるというて、人間同士から、信用を落とすような事はです、例えばそれが御事柄であってもね、ここでそれを、その成り行きと対決する、そういう誘惑なら誘惑と対決して、それに勝ことによって、力を受けるんだという風に説きましたでしょう。
だから、力を受けるというか、徳を受ける。そこからです、いうならば限りないおかげが、頂けれる。ね、このような真宗では、そこは説いておりませんし、それは、まぁむしろ、その(ざっしゅうのよう?)といったような言葉で、その御利益を受けるという宗教を大変廃止しとりますけれども、人間が生きていく上にです、全てのものに恵まれるおかげを頂かせて頂かなければですね、人間の幸せはありえませんものね。
ですから、それにはです、例えばね、例えば競輪に誘われましてもです、これが、そこで見極めを付けさせて頂いて、それをぐっと辛抱させてもらえれる、その力こそがです、徳にもあり、その力、そのそういう辛抱しておるその、いわゆる梅の花の信心です、今日の御理解。
ね、ずっと行きたいけれども、したいけれども、ね、そうありたいけれども、そこんところを辛抱させて頂いて、生神金光大神様とおすがりさせて頂く、そういうしん、姿にです、神様がご信用下さる。力を受けるわけですね。
力を受けるから、力を頂いた程度のおかげが、いうなら御利益が、これはもう願わんでも頂けるという事になる。そこんところを、例えば、親鸞上人様も、蓮如上人様も、説いておられない。
いわゆる神を信ずるという事においては、もうあらゆる角度からと書いてある、ね、そして、もうその身そのまま、南無阿弥陀仏と唱えれば助かるんだと、極端に説かれたわけです。
だからもうそれこそ、救われてない人間が沢山おるもんですから、その人達がいっぺんに、あーっと真宗の信心になったわけですね。そして、そして(いっきょうしゅう?)というて、もう他の宗教は拝んじゃならんということにまでなってきた。そしてなら、御利益を受けとるとはいっちょん思われん。
いうならば、月の差し込むあばら家に住んでおってもね、( ? )と二人であるならば、幸せだという意味のおかげだけしか頂いていない。そういう境地が開けて参りまいたら、月の指し込むようなあばら家に住むことはいらん。金殿玉楼のようなお家も住めれる。というのが、金光教の信心なんです。
ね、そこでです、桜の花の信心より、なるほど梅の花の信心をせよ。ということになる。昨日から、説きますそれは、桜の花の信心のようなもので。ね、辛抱がとものうていない、いうならば。
ね、やっぱ辛抱が出来なされない。ね、次々と奥さんが亡くなられた、からもう60にも70になって何が妻帯紹介という風じゃなかった。やっぱもう最後まで奥さんをむかえられて、そして、27人という沢山な子を儲けられれた。そして、例えば、いわゆるそれを真宗に帰依した人達は、生き仏様のように、それこそ親鸞上人様の生まれ代わりのように尊んだ。
だから、それを、も間違いではない。ね、けれどもそれではね、それではけれども、いわゆる梅の花の信心にはならない、徳にはならない、力にはならない。神に信じられるという事にはなおさらならないという事が分かりますでしょう。信ずる事が出来て。
金光様のご信心はね、ほんに有り難い。
これは、昨日私、四時の御祈念の、本当に世界中の総氏子のこと。世界をすみずみの、もう本当に、人達の上のことを、この頃は、結構祈らなければおられない思いでここによらせてもらいます。私の心が、いわゆる世界中に、まぁ広がっていくわけですね、祈りが。
そしたら、★私のご心眼にね、ようあの映画かなんかで見ますあの、アメリカあたりの、田舎の、山の中に材木を出すことのだけの為の、鉄道がひかれておりますね。そして、もう大きな材木をどんどんどんどん、山奥から、こう運び出しておるというような、山の中にまで、そのようしかれておるというのがありましょう。貨物ばっかり。
それがね、それがその運び出されておるのではなくてね、それが山の方へむかってずっと、沢山な列車、あその、貨物を引いた汽車が行くところを頂くんですよ。
もう私はそれを頂いてから、有り難いと思った。すぐ、私の心の中に、いわゆる御理解を感じたわけです。ね、私が世界中のことをこうやって、人達のことを祈っておる。山の奥の奥の中に働いておるというか、住んでおる人間達のことまで、私の心を、が運ばれておるという事。大きな材木ということは、大きな木、心という事です。
はー、私の祈りがですね、このようにして、神様聞き届けておって下さるんだということなんです。だから同じ祈っても、願ってもね、神様が聞き届けて下さらなければ、ね、だから世界の隅々まで私の祈りがこうやって、まぁ行きよるなという事をね、感じさせて頂いたんですけれどね。
私はこれは、いわゆる祈る力というか、その力がなかなければ、そういう事になっていかん。浸透して行かんとですね、祈りが。これも昨日、おー、これは昨日の、昨日の晩です、一昨日です。若先生があの、いわゆる(花むけ?)に何をしたならよかろうかと、(なに?)もそろうとるから、それでもあれをしたい、これをしたという( ? )があって、えー、松栄会の方達がそこに大きな、大きなというか、もう少し立派な、踏み机をお供えした。それがもう久留米あたりないから、福岡まで買いに行くというので、信司さんと麻生さんと、嘉郎さん3人で、若先生と4人でいっとります。
それから、お靴のお供えをしたいという。いうからやはりもう3人にお世話になっちゃいかんけんで、やっぱ1万2、3千円ぐらい出してよかと買うて下さいと。と言うことで、お金を預けてあったそうですから、まぁそれだけのものを買って来て、夕方帰って参りましてから、本当におかげを受けたというて帰って参りました。
それがあの、おー、岩田屋ですかね、「玉屋?」ですか、「玉屋?」で、「玉屋?」で丁度おー、桜の材料で作った器具の(民芸調?)の、まぁそういうコーナーがあってね。そこに、こちらから寸法計っていっておった、もう何処の家具屋にもなかったものがきちっと、しかも見事な物があったわけです。
それを、まぁ買わせて頂いて、まぁあの人達の事ですから、強引にそのデパートで値切るというのですから、そうとう( ? )が強いです。けどもその、まぁ値切った。ところがね、そのやっぱデパートでまけるはずはありません、一銭だってまけはしません。
けれども、その何ていうですか、(街商?)ですかね、(街商?)の方にそういう、そこのお得意さんなら、ありゃ値引きをすることになってる。ここは、井筒屋が(街商…?)ですから、やっぱりまけてくれるです、沢山まけてくれるです。
だから、でない限りは、おまけは出来ません、とこういわれたそうです。そういうて、しったもんだしよるところへ、秋永先生の奥さんが( ? )やって来たんです。そして、あの人がチケットを持っておるから、ならこれで買いなさいという事になったら、やっぱりそこで、値引きをしてくれたとこういうわけなんです。
もうそれは、毎日デパートに行かれたけども、なかろうが、あの広い福岡でですね、秋永先生の奥さん、しかもチケットを丁度持ち合わせておった、もとそこであったというんです。普通買いにいく時も、もうそこはぜったい(?)な店で、それこそまぁ一銭だってまけられないというのは、やっぱ強引に(こぎって?)おった。けども、まけられません、まける、まけ、まけなさいという、時に丁度、麻生さんの知った方が奥から出てきたち。
はー、あら麻生さんでしたかて、そういうわけで、それはまぁ特別で値引きをしたという。だからそのまけてもろうた金額がどうのこうのじゃなくて、まけられたから有り難いのではなくて、そういう神様の働きが素晴らしい。
行きがけにちゃんとお取り次ぎを頂いて、こんなわけで参りますからと、お取り次ぎを頂いたいっとりますから、そのたったの二つの品物を買わせて頂くのに、二つともそういうね、もう本当に不思議なお繰り合わせを頂いておる。
もう本当に、えー、今度若先生のあの、結婚にあったては、まぁあっちこっちから、まぁ見事な物を頂いておりますけれども、もう本当にそれこそもう、ダブルという事がない。もう見事、はーこげな、ここにはなかった、はー、これは頂いてよかったといったようなものが集まってくる。
もうその、あー、なんて、一分一厘神様間違いなさというか、それの、ただただ恐れ入ってしまうばかりの、その思いをです、私はその晩、お礼ば神様に申させてもらいよった。そしたらね、★あの、今「つゆ草?」という草が生えてるでしょう。空色の、「バイリ?」先生が、好んで書かれる、あの、草のね、今、あぜ道なんかにいっぱい生えてます。空色の小さい花が咲きます。
あの花がね、例えばこれだけのところなら、こちらにかたまってこうやって咲いとるところを頂いた。梅雨といやお恵みと仰る。花といやおかげと仰る。そのお恵みのおかげがね、かたよっとるちゅうこと。
ね、これ常に咲いてないと。という事はどういう事かと。ね、今例えばなら、若先生の結婚式なら結婚式という事で、神様が特別な働きを下さって、もうそこにおかげがどんどん集まっておるわけです。
ね、例えばそのことを、昨日若先生に話させて頂いたんですよ。こういうお知らせを頂いたと。しっかり信心させてもらわにゃなと。こりゃ若先生が申しますことが、本当にまぁ僕もそれを感じますて、僕達の信心でこんな、あその、結構な物を頂いたり、結構な目にあうという事がです、あろうはずがないほどしのおかげを頂いておる。丸っきり神様に、さっさと借金しておるようなもんだとこうもうしますからね、若先生、借金ぐらいならね、返しゃよかばってんね。そげなことじゃなかよ、と私は申しました。
ね、例えば私の家系だけがおかげを頂く、若先生だけがおかげを受けるという風に方よってしまったらね、私の頂いておる力というものは、それだけなのだから、その力が片一方に方よってしもうたら、もうここに、沢山の人が参ってくる人が、おかげを受けられんようになったら、どうするかて私が。
こりゃ本気で、私共がまんべんなしにです、ここに、ね、もうちっと信心を本気でさせて頂いて、ね、片寄らない、これはおかげでなからなければ、まぁいけんのぞというて、まぁ話したことでございます。
私共一家だけがおかげを受けたという事は、これは片寄った物。そこで、私共は、もう一つここに、一段の信心をさせて頂いてです、ね、おかげを頂くなら信者の方もおかげを頂いて下さるようなおかげになってこなければならん。
ただ私共が、おかげを受けるという事、神様に借金するといったようなことならば、又後でお祓いするという手もあるけれども、その間信者が助からんという事になったら、どうするかというて、まぁ話しをしたことですけれども。
そういうようなものがです、私は、これからの、桜の花の信心より梅の花の信心ということをです、ね、いうならそれはどういうことかというと、神を信ずることはもう十分出来とるにしましてもです、神様に信じられる氏子にならんければならんという信心が、これから私共に求められるんだというわけなのであります。
神様に信じられる信心とは、ならどういう信心をさせて頂いたならよいかと。ね、それにはね、例えば昨日から申しまうす。いうならばドライな信心。割り切った信心。こんくらいなこっちゃいけん私といったようなね、ことでは、なるほど神様がそれでお気付けを下さる事も、罰を与えなさることもなかろうけれどもです、それでは人が助かるといったような事にはならない。自分自身もまた、限りないおかげに触れて行くという事もできない。
昨日でしたか、私はテレビで、ちょっと見せて頂いたんですけども、なんか近鉄、まぁあちらの、あの電車が正面衝突してますね。しかもあのトンネルの中だった。それこそもう、それこそもう(しらじょう?)のようなあのいったね、もう全( ? )電車が悔い込んで、そこに何百人という、死傷者が出た。
実に悲惨な事である。本当に、もう何分か、こうしとたら、もうこうね、トンネルから出てから、きれいに( ? )が出来たんでしょうけれどもです。私共が例えば信心の道を一生懸命こうやって歩かせて頂いて、ね、いわば起動にのった、こりゃまぁ私共のことに又なりますけれども、天地にこれさえ辿っていきゃ、天地、天地を貫くほどしの起動にのった、というてもです、その起動にのったというてもです、脱線することがある。
又は、正面から来る奴と正面衝突するような事がないとも限らん。ね、神様の例えば、偉い大きな勢いでおかげを下さろうとしておる、向こうからきよるそのおかげと、私共の信心と、ここにぶつかるようなことになったらどうするか。
ね、起動を(うっして?)例えば脱線したらどうするか。私は今朝から、そのことをお知らせを頂いてから、本当にひやっとする思いがしました。昨日から感じておること、そして今朝から、思うておること。(だら?)のことからですね、もう天地の、に、を貫くほどしの、この天地の大道に出ておる、この起動にのっておるから、もう安心という事はさらさらない。そこで私共がです、いうならば慎みも慎ませて頂けれる信心。ね、それこそ石橋をわたい、叩いてわたるほどしの信心。
これではね、おかげを受けられなくなってしまうという、例えば、なら真宗仏教のような事に成り果てるとも限らない。ね、大変お徳を受けられた先生がおられて、大変な御比礼が立った。けれども、二代になり三代になっていくにしたがって、そういう、いわば、生き生きとしたおかげがもう頂けないのは、脱線しとるとですよ、やっぱきっと。確かに起動にはのっちゃる。けれども、やはり衝突しとるとですよ、やはり。信者が惨めです。
それこそ信者はもうばらばらで、ね、あの時代におった、あの信者、あの、あぁいう素晴らしい方がというのが、皆、金光様のこの字も言わんごとなってしもうとるといったような事実があるところから見てです、こりゃ合楽だって同じことだと私は思うです。
けども、前もって、若先生こうやって神様がお知らせを下さるという事は有り難いね、ていうて話たことでした。まぁ合楽の、まぁ値打ちはね、昨日も例えば、昨日の御理解がです、私がこの本を読んでから、皆さんに聞いておった、もろうたんじゃったら値打ちはないです。けども私がここに書いてある、そういうような昨日も皆さん聞いて頂いたようなことがです、もうそのままのような、同じ道理の事が、私昨日読ませて頂いた10ページばっかりの中にあるということがね、なるほど、合楽の信心は新しい、ね、そこからもってきた。ここから聞いてきたというものじゃない。というものを私は感じました。
だから、そういうものはなら日々、こうやって頂いておるのでございますから、私共と、とてもです、ここに私はあのもう一遍梅の花の信心という、梅の花の信心を検討させて頂いてね、新たな意味においての、桜の花の信心より、梅の花の信心をさせて頂かなければならないなと、そこからです、そりゃなるほど、もう手の出るごと欲しいこともありますよね、けどそこをじっとこう辛抱をする信心からです、ね、神様が例えば、欲しいとか願わんでも、下さるようなおかげを頂けるために、神様に信じられる信心が、そこになされなければならない。
ね、神様に信じられる氏子が少ない。その神様に信じられる氏子にならせて頂く為にです、信心が又新たに工夫されていかなきゃならんなというふうに思うております。
今日は、桜の花の信心と、梅の花の信心を頂いて、角度の違ったところから、こう頂いたわけですね。だから昨日の御理解をいっぺんよく、あの思い出して、そして、えー、そこからね、いうならば、えー、決して神様が罰を当てなさるとか、そういう事はないにいたしましてもです、それに甘んじておったら、ね、私はいうならば、何の力も生き生きしたものも、いわゆる(しきさい?)を変えてしまう。ただ、電動がですね、いわゆるがらんどうのようなものになって行くだけのことになる。
ここに私共がです、神様に信じられるという信心。それには、ね、それは(ざっしゅう?)というて、笑うなら笑え軽蔑するなら軽蔑せよ。それこそ「小野?」先生じゃないばってん、それこそ断食の修行でもさせて頂いてでもです、私は辛抱力をつくらせてもらう、おかげを頂いて、梅の花の信心をさせて頂く、そこから、神にこの氏子ならと信じられる道が開けて来るとこう思うんですよね。どうぞ。
梶原 佳行